岩手県藤沢町の松尾山円融寺(まつおざん・えんゆうじ)の開基年代は不詳ですが、源頼朝の臣下にして奥州総奉行であった葛西氏の祈願所として開かれた、800年以上の古寺に属することは口碑の伝えるところです。
往古には紀州根来寺を本山としていましたが、葛西氏の衰微に伴い廃滅同然となっていました。その後、文明3年(1471年)宥日法印なる傑僧が当寺を再興します。
当時37ヶ寺の末寺を擁していましたが、延享3年(1746年)の書上では門徒7ヶ寺に減少してしまいます。
時は移り、この地が伊達家の封土となってからは、伊達氏一家にして重臣の新田宗三郎(後に中村氏と改姓)が檀頭につき、第二世祐誉法印を京に遣わし、真言宗智山派総本山智積院に懇請し、その末寺となりました。
邑長中村氏の転封ののち、奥山隼人氏が邑主になるに及んでも、その祈祷所として幕末に至ります。
毎月28日午後6時30分から不動尊御縁日大護摩供が不動堂にて厳修されます。
・秋彼岸法要(中日)
・不動尊ご縁日(毎月28日午後6時30分)
円融寺の御本尊は、金剛界大日如来で、高さ2尺5寸(75.7cm)の木仏座像です。
境内には、安政3年(1856年)当寺第27世宥珊法印の建立した、中興宥日法印の石碑が現存しています。
境内、前庭右手には、小ぶりなもみじの木の下に、文化の頃の住職、月踞法師(釣雲堂と号す)の揮毫を刻んだ、芭蕉の句碑がひっそりと建っております。
『春もやゝ 気色ととのふ 月と梅』
この句碑は、昭和46年には、藤沢町史跡として指定されました。
「松尾山」山号の由来と雷石の伝説
古老の伝えるところによると、宥日法印が何処から求めてきたのか、雷石という奇岩を境内に据えたら、石は晴天の日には常に石の中から、霧状の煙に似た気体が立ち上がり、曇天の日には、石が濡れて、その後は雷雨になったそうだ。実に不思議な石であった。
宥日法印が、下野の国吉川という土地を巡巣錫中に石を割り、一片を持ち帰ったのだという。境内に置くと、石の割れ目から霧状の白煙が出てやがて、白龍の姿に変わり、天高く飛んでいったとか。白龍の尾となった部分が、庭に植えた松の枝にからんだように見えたので、寺の山号を松尾山と称するようになったと伝えられている。
雷石は、文化年間(1804~1818)のころから、たびたび落雷を招き、住民の恐怖と不安が絶えなかったので、大母の地に移し地中深く埋めその上に碑を建て、雷神様としてまつった。地域の人達はこの碑を雨乞い田の神様として拝んだ。そのためか旱ばつが少なかったと云う。
現在、この碑の建っている場所を特定することは出来ないが、昔の人のロマンを考えると、興味深いものではないだろうか。
真言宗智山派
松尾山 円融寺
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岩手県一関市藤沢町藤沢字早道98番地
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